第1話

「助けてくれ。帰りたいよ。こんなところで死にたくない」
 宿営地の上空を、死神がふらふらと漂っている。ぬるい風に煽られて、あちらこちらへ。その度に男たちが死んだ。
 ごく、普通の戦場の風景だった。


 血屎に犯され、吐瀉物と汚物の海に溺れながら、男が泣いていた。

 テントの入り口の脇の椅子に腰掛けて黙々と敵を殺すための得物を磨く兵士は無表情だった。すぐ近くの草むらに座り込んだ彼は、最近物思いに耽ることが増えた。小指に、しばらく前に襲った女から奪った結婚指輪を嵌めるようになってからだった。
 女の悲鳴が、兵士の耳の奥から離れて止むことはない。犯して、奪って、殺した。必死に喚いていた夫は、その前に鉄靴で蹴り殺した。理不尽な暴力だった。故郷にいる時、兵士は誰よりも優しい、穏やかな人間だった。犬が好きで、飼い犬が死んだ時には三日も食事が通らなかったものだ。
 それなのに、兵士は泣く女を立て続けに三度も犯していた。体の奥から突き上げるような怒りが、収まらなかった。
 
 血屎の男の泣き声は一段と高くなった。天幕にすら入れてもらえなくなったということは、もう誰からも見放されたということだ。男の使っていた寝台は清掃され、次の誰かのものになっているはずだった。体力もなくなっているに違いない。それなのに、さいごの力を振り絞って、男は鳴く。死にたくない、死にたくない。
 そう、あの女も、死にたくないと言っていた。夫を殺され、身ぐるみを剥がされ、住んでいた村は完全に滅びた。それなのに、あの女は死にたくないと言っていた。乳房に白刃を突きつけられて、女は手を合わせた。死にたくない。助けて。死にたくない。


 兵士は頭がくらくらして、座っているのさえ辛くなっていた。慣れたと思っていた。殺して殺して、奪い尽くしてきた。戦争
だから、と兵士は思う。育ったいのちが刈り取られる死神の園なのだ。だから仕方がないはずだった。それなのに、この目眩は何なのだ。この、絶望は何なのだ。彼の手には、貧しい女から奪った安物のメッキの指輪が残っているだけだった。そして彼の手はこの世のものとは思えないほどに汚れきっていた。なんで、なんでこんなことに。
 彼はどうしようもない、と思った。彼は研いでいたナイフを鞘から払うと、喉に深々と突き刺した。
 一瞬、宿営地は静寂に沈んだ。
 だが、すぐに喧騒を取り戻した。おい、スープの中に蝉が浮いてるぜ。うるせえ、文句があるなら喰うんじゃねえ。なんだと、この野郎。
 

 死は、何よりも軽いのだ。それが戦争だった。そんなものなのだな、と彼はわらうと、あとは血の海の中で目を閉じるだけだった。

 指輪は、すぐに彼の指から抜きさられた。埋葬料替わりに金の指輪を貰えたとほくそ笑んでいた従軍神父は、それが煙草銭程度のものだと気がつくと、強く舌打ちをした。

 †

 砂場の砂の山が削り取られるように兵士の数は減った。

 邪教徒討伐を目的とした正しい戦争のはずだった。
 それなのに、こちらに味方をしてくれるはずの神様がそっぽを向いた。ようやく気づいたのは、王国の北にある大陸に上陸してから、月の満ち欠けが半周した頃だった。

 最初は良かった。地元の豪族から兵糧の提供を受けながら、順調に進軍していた。しかし、ある日ふいに森が深くなった。

 すぐに豪族達は手を引いた。それならばと初めた、物資徴発をするための村もすぐに見つからなくなった。大汗をかいて掘った井戸からは赤水が出る。邪教徒の伏兵や魔物どもの襲撃は毎夜ひっきりなしで、お目当ての邪教徒の都は遥か遠い。何のための遠征だったのか、服従がなによりの美徳の騎士達もようやく不満を漏らし始めた頃には、もう彼らは抜き差しならない地点まで進んでしまっていた。後悔しても遅い。木々のざわめきが、虫の羽音が、戦友の呻きが更なる恐怖を誘った。
 それでもこの戦争は終わらない。 
 この十字軍を率いる王太子に、その自由は無かったのだ。

 †

 その場しのぎの簡素な見張り台の上で、どこからか盗んできた安酒で酔っ払った兵士が、束の間の眠りを貪っていた。
 遥かに遠い故郷の夢を見ているのか兵士は女の名前を繰り返し呟いていた。無精髭を涎がゆっくりと伝っていく。アンヌ、アンヌ。


 鉛色の空の下やたらと強い風に、軍旗が狂ったように翻っている。

 †

「敵襲だああ」
 払暁の空気を震わせて、歩哨の絶叫が夜に響いた。応じる声が続き、静まっていた宿営地はすぐに喧騒に包まれる。

 男はすぐに寝台から抜け出し、鎖帷子を着込み、鎧を身に付け、兜を被った。手慣れている。とは言え、熟練の戦士というわけではない。まだ青年と呼ぶべき若さだった。
 甲冑は軽くて丈夫な白銀製だ。猛り狂う獅子と竜が彫られた自慢の逸品は、帯甲式の日に祖父から譲られたものだった。斬るような冷たさが、男のお気に入りだった。鉄ではこうはいかない。鉄製の道具は、どうも、鈍さが第一に来た。
 大きな咳払いを一つしてから従者が男の天幕に入って来た。
「殿下、殿下。敵襲です。何卒お支度を」
 彼は心底うんざりしていた。水時計を見ると、日の出にはまだ少し間がある。
「また魔物か」
「いえ、殿下。邪教徒であります。北方の平原に展開。恐らくは300テマほどかと。既に我が軍の偵察隊と接触しています」
「300テマ。大軍だ」
「殿下。とにかくお早く。閣下達がお待ちです」
「うん」
 得物を握った。自ら鍛えた曲刀。重さを確かめるように、二、三回振る。体内の血が体中を駆け回る。
 戦いが近い。
 男は最後にマントを纏い、大袈裟に翻した。真紅に染められたマントの背には、金糸でグランバニア王家の紋章が刺繍されている。従う従者はこの男の後ろ姿を見るたびに、双頭の鷲が羽ばたいたように思う。

 †

 平原を見下ろす丘の中腹に、グランバニア王国軍は集結していた。エステヴァン家とその一族の騎士が右翼に、デモンズ家とその一族の騎士が左翼に、その他諸々の雑多な貴族達と王太子の旗本が中央に陣取る、いつもの配置だった。
 夜の残滓を背負って、平原に広く展開した邪教徒の数はおおよそ350テマだった。報告よりも随分と多い、と騎士たちの顔色は優れない。一方、王太子は暢気にも場違いな宮殿の隅にある洗濯場を思い出していた。あれも、これも同じだった。両方、ふわり、ふわりと靡いている。
 黄色や青の色鮮やかな異教の衣装は、王国ならば女子供が喜んで着るような類の服だった。幼い印象のわりには、彼らは侵略者たちを皆殺しにする気らしかった。槍の先には刈り取ったグランバニア人の首が鈴なりにぶら下がっている。未だ新鮮なものから、腐乱したもの、枯草色の頭蓋骨まで揃えて、よほど彼らはグランバニア人の首がお気に入りのようだった。
「まさに、邪教徒のみ為せる業です」
 しゃがみ込んでしまった従者の声は震えていた。悪魔、悪魔、と十字を切っている。自分の首がやりの先にぶら下がる光景を、想像ではなく実感を持った恐怖として感じる。従者は神に祈らずにはいられなかったのだ。
「十字など切る暇があるなら、得物を調べておけ。命取りになるぞ」
 王太子が言うと、従者はそれから剣を初めて抜いた。

 †

 先発の偵察部隊は既に霧散していた。首を失った体がごろごろと転がっているのが遠目に見えた。何かを掴もうとする手つきからすると、あるいは正しい神を恨んでいるのかも知れない。なぜ、守ってくれなかったのかと。正しいのではなかったのかと。
 王太子は、嫌だなと思った。彼らにも家族がいる。どんな顔をして、彼らの死を王国へ伝えなければならないのだろうか。

 邪教徒の士気は王国軍のそれを上回っているように見えた。ようやく登り始めた朝日を背にした王国軍は、立ち上がれる傷病兵を全員掻き集めてまで、自分達の図体を大きく見せていた。要するに、それほどに彼我の差は大きい。
「死ぬかもな」
 王太子は呟いた。周囲に集まった貴族たちは、特に応じるわけでもなく、自分の言いたいことを言い募る。
「5倍の敵と闘うのは正気の沙汰ではありません」
 貴族たちは怯えていた。
 戦う気でいるのが自分だけではないのを確かめるために、男は貴族の集団の中の一人をちらと見やった。男と同じ齢のはずなのに、この貴族は小太りと童顔のせいで青年どころか未だ少年と言っても通じるような風体だった。
 エステヴァン公爵サンチョの深い頷きを得ると、男は確かめるように言った。
「退く気はない。邪教徒に背を向けるわけにはいかない。この戦いは聖戦なのだから。父上も、邪教徒の長を殺すか、生け捕りにするまで王国に戻れると思うなと仰ったのだから。諸君も、それなりの覚悟でこの十字軍に加わったはずだ。今更、怖気づいたはずはあるまいな、諸君」。
 正論を持ち出されると、名誉を無分別に重んじる貴族達は弱い。彼らは一瞬戸惑い、それでも、その次の瞬間には覚悟を決めたらしい。
「王国と王太子殿下に栄光あれ」
 貴族達が言うと、下らない軍議はそれでお開きなった。
 男の前に残ったのはサンチョとあと一人、飛びぬけて長身の貴族だけだった。
「恐れながら、私は撤退を具申します」
 と貴族は言った。兜の面頬を上げている。鬚面。悪魔を模した、黒い兜がなぜかこの土地特有の白い泥に汚れている。
「殿下、引いてはなりませぬ」
 とサンチョは男の方を向いて言った。こちらはグレイトヘルムを完全に頭から外して脇に抱えている。自分の慎重を臆病と嘲っているのに気がついて、聞いた途端、デモンズ辺境伯爵ジャンは年甲斐もなくサンチョを睨み、怒鳴りつけた。
「五倍の敵と相対して言える科白ですかな、公爵閣下」
「伯爵。戦が数で決まるわけではないことぐらい承知であろう」
「策でも有るというわけですか」
「兵士の質があまりにも違いすぎる。負けるはずがない。我らはグランバニアは必勝不敗。それとも、伯爵殿は怖気づいたか」
「とんでもない。まあ、公爵閣下のお考えは甘ったれていて話になりませんということでございますよ。王太子殿下を負け戦に放り込むつもりなのですか。こんなことならば、エステヴァン公爵家などに大切な殿下をお任せするのではなかった。もっと、デモンズの騎士たちを連れてくればよかった。エステヴァンの騎士たちなど、戦力の勘定に入れるのではなかった」
「貴殿はエステヴァン家の騎士たちを愚弄しているのか。聞き捨てならないぞ」
「ふん、安穏な王都の暮らしに慣れたエステヴァン家の男たちに何が出来ようか。雨露で喉を潤し、狩った魔物で腹を満たす、我ら勇猛果敢なデモンズ辺境伯の騎士たちこそが、王太子殿下を主にお護りする名誉に浴するべきだったのだ」
「蛮人が。貴様らなど、辺境で魔物や邪教徒と果てしなく殺しあっていれば良いのだ」
「腑抜けが親父殿の威光を嵩に、偉そうな。貴様らなど王都で腐っていれば良いのだ」
 白い大天使を紋章にするエステヴァン家と黒い悪魔を紋章にするデモンズ家は単純ないがみ合いでは終わらず、まさに仇敵同士だった。
 ただの口喧嘩で終わらず、これは面倒くさいことになるに違いない。

 グランバニア王国王太子パパスは、またもや苦笑いを禁じえない。